名所絵のご紹介

名所絵とは

日本各地の有名な場所を描いた浮世絵のことを「名所絵(めいしょえ)」と言います。葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五拾三次』がその代表例です。多色刷りの技術(錦絵)が発展し、鮮やかな色彩表現が可能になったことで、名所絵は一躍人気のテーマとなりました。

驚くことに、これらの名所絵の多くは、絵師が現地に赴いて描いたわけではありません。実際には足を運ばず、他人が書いた旅のガイドブック(名所図会など)を参考にしたり、想像を膨らませたりして描いたケースが非常に多かったのです。

当時の移動手段は徒歩が主流であり、遠出には莫大な旅費と、厳しい関所を越えるための「通行手形」が必要でした。そのため、絵師といえども簡単には旅に出られなかったという背景があります(一方で、この険しい東海道を何日もかけて行き来した商人たちは、江戸・京都間で大きな利益を上げていたと言われています)。

このような事情から、実際の風景とは雰囲気が全く異なる絵も少なくありません。絵師たちは、季節や天候をガラリと変えたり、構図を大胆にデフォルメしたりして作品を仕上げていました。

写真がない時代だからこそ、求められたのは「寸分狂わぬ正確さ」ではなく、「これがあの噂の場所か!」という旅への憧れを刺激する演出だったのではないでしょうか。

「広重」という名前

「広重」という名前を聞くと、江戸時代後期の浮世絵師を想像する方が多いと思いますが、実はこの画号は五代目まで受け継がれています。
初代広重は「安藤広重」と呼ばれることもありますが、本人はその画号を名乗っておらず、歴史的には誤りとされています。彼の本名は安藤重右衛門。師匠である歌川豊広から一字を譲り受け、自身の本名と組み合わせた「歌川広重」が正しい絵師名です。

広重の名前自体は「東海道五拾三次」を描いたことで世に知られていますが、その後の二代目や三代目が活躍したのは明治時代でした。そのため彼らの作品には、鉄道や洋風建築といった文明開化の産物が積極的に描かれています。

では、なぜ「広重」の名はこれほど長く使い続けられたのでしょうか。
例えば二代目広重は、当初「重宣(しげのぶ)」と名乗っていました。しかし、1858年に初代が没すると、翌年に初代の養女の婿となり、二代目広重を襲名します。

「広重」の名を継ぐことは、「自分が初代の正統な後継者である」と世間に証明することを意味しました。当時、「広重」の名は広く知られていたため、版元(出版社)や買い手も、その看板があることで安心して作品を取引できたという商業的な背景があったのです。

作品のご紹介

二代広重『東都三十六景 滝の川紅葉』

現在の東京都北区王子周辺、「北区立音無親水公園」付近を流れる石神井川を描いた作品です。
かつてこの地は、渓谷の急流と豊かな自然から「滝の川」と呼ばれ、秋の紅葉狩りなどに訪れる行楽客で賑わう名所でした。
現在は地形が変わり、絵のような渓谷美を見ることはできませんが、今なお風情ある散策路として人々に親しまれています。

 

二代広重『東都名所 両国 川ひらき花火』

手前に多くの人々が行き交う両国橋を配し、川面には屋形船や遊船が浮かびます。夜空に打ち上がる花火と、それを見物に集まった人々の賑わいが画面いっぱいに広がっています。

「川開き」は夏の到来を告げる年中行事です。隅田川の川開きに打ち上げられた花火がその始まりとされ、両国橋付近には多くの見物人が詰めかけるなど、江戸市民の間で絶大な人気を誇る一大イベントでした。

 

名所絵の世界を体験できる作品の例をここからご覧ください。

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